ウイスキーの歴史について解説!生命の水からの発展や密造時代、アメリカや日本への伝来などを解説します。

ウイスキー
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ウイスキーは、麦芽や穀物を原料として、これを糖化、発酵させたのち、蒸留し、さらに樽の中で熟成された酒のことをいいます。ウイスキーのあの琥珀色は、この樽熟成の歳月の流れの中で育まれたものなのです。

さらに、この熟成によってウイスキーの風味はまろやかになり、華やかな香りと味わい深いコクを持つようになります。ですが、ウイスキーは、誕生当初から樽熟成をしていたわけではありません。

長い問、蒸留したての色のついていない状態で飲まれてきました。樽熟成により琥珀色になったウイスキーが飲まれるようになったのは、19世紀に入ってからのことです。

目次

ウイスキーの起源は生命の水から

ウイスキーの歴史は、錬金術師たちがつくった「生命の水」に始まっています。

このことは、ウイスキーの語源であるゲール語のウシュクベーハが、「生命の水」の意味を持つことからも明らかです。中世の錬金術師たちは、醸造酒を蒸留する技術を発見したとき、その燃えるような味わいに驚いて、それをアクア・ビテ(生命の水)と呼びました。

ヨーロッパ各地に蒸留技術が伝わるとともに、その共通語アクア・ビテが各地の言葉に訳され、蒸留酒をさすようになりましました。

この技術を、穀物からつくった醸造酒、つまリビールに応用したのが、ウイスキーの始まりです。

しかし、ウイスキーの蒸留がいつごろ最初に行なわれたのか、あるいは、いつごろから飲まれていたのかは明らかではありません。

ウイスキーが歴史上、記録として最初に現れるのは、12世紀に入ってからです。

1171年、イングランドエヘンリー2世の軍隊が、アイルランドヘ遠征したとき、「この地で生命の水と称する強い酒(アスキボー)を飲んでいるのを見た」という記述を残しており、これがウイスキーの前身だったと考えられます。

その後、1494年には、スコットランド大蔵省の記録に「アクア・ビテ製造のため麦芽(モルト、malt)8ボル(bolls、当時の容量単位)をジョン・コー修道士へ」とあり、ここにアクア・ビテ(Aquavitae)という言葉が登場し、スコットランドでも蒸留が行なわれていたことが明らかになっています。

このあと、スコットランドでは、大麦麦芽でつくる蒸留酒の記録がいろいろ現れ、ウイスキーづくりが広まっていく姿をたどることができるが、ウイスキーという言葉が、「WHIS‐KIE、WHISKY」として文献に登場するのは、1715年発行のスコットランド落首集が最初といわれています。

1707年、それまで二大王国であったイングランドとスコットランドは統合され、大英連合王国(大ブリテン王国)となりましました。

これにともない、1713年、政府はスコットランドに、それまでイングランドで行なわれていた麦芽税を適用することにしました。

密造時代の始まり

これに対して、スコットランドのローランド地方の大規模蒸留業者は、大麦麦芽以外の穀物を混ぜ、麦芽の使用量を減らして蒸留するようになりましました。

一方、小規模蒸留業者は、イングランドの徴税使が入り込めないようなハイランド地方の山奥に蒸留所をつくり、隠れて密造をするようになりましました。

密造時代の始まりです。

彼らは、作業のしやすさから、大麦麦芽だけで蒸留し、大麦麦芽を乾燥させる燃料として、付近にあったピート(泥炭)を使い、貯蔵にはシェリーの空き樽を流用しました。

前者は、のちのグレーン・ウイスキーの前身と考えることができるし、後者は、モルト・ウイスキーの前身と考えてよいでしょう。

その後、1823年の新しい法律により密造の時代は終わりを告げます。

ウイスキー蒸留の発展

ハイランドの大地主で、上院議員であったアレクサンダー・ゴードンは、小規模の蒸留所にも安い税金で蒸留できる新しい税制を提案しました。

このとき、最初に公認の蒸留免許を取得した蒸留業者がジョージ・スミスです。

蒸留業者は次々に名乗りをあげ、熱心にウイスキーづくりを発展させました。ちょうど産業革命の真っ盛りの時期でした。

一方、ローランド地方の大規模蒸留業者は、蒸留の効率化を進め、1826年には、スコットランドの蒸留業者ロバート・スタインが連続式蒸留機を開発しました。

さらに、1831年にはアイルランド、ダブリンの収税吏、イーニアス・コフィー(AeneasCoffey)が、コフィー式の連続蒸留機を完成させ、パテントを取ったため、それはパテント・スチル(PatentStill)と呼ばれました。

その後、連続式蒸留機は数々の改良が加えられ、ローランド地方のあちこちに、グレーン・ウイスキーの塔が登場することとなります。

1860年には、エジンバラのウイスキー商、アンドルー・アッシャーによって、従来の単式蒸留器による個性の強い風味のモルト・ウイスキーと、連続式蒸留機によるマイルドなグレーン・ウイスキーとをブレンドした新しいタイプのウイスキー、つまリブレンデッド・ウイスキーが誕生しました。

このブレンドによってウイスキーは、まろやかさと飲みやすさを獲得し、好評を得るようになっていきました。しかし、一方では乱立したグレーン業者の過当競争が激化し、倒産も見られるようになってきたのです。

そこで、1877年には、ローランドのグレーン・ウイスキー業者6社が集まり、D.C.L.(Distillers Company Limited)を結成し、ウイスキーづくりの大企業化が始まったのです。

当時、フランスのブドウ栽培地ではフィロキセラ害虫の蔓延でブドウが壊滅し、ワインやコニャックが異常に高騰していましました。

当時のロンドンの上流階級ではウイスキーは飲まれておらず、赤ワインやブランデーを愛飲していたが、これを機に上流階級の間でもスコッチ・ウイスキーが飲まれるようになり、ジンを愛飲していたロンドン市民の間にも広まり出しました。

こうした情勢に目をつけたD.C.L.は、スコットランド各地に散在するモルト・ウイスキー蒸留所を買収したり、自らの手で新たにモルト・ウイスキー蒸留所を建設し、生産量を拡大し、南北アメリカを始め、イギリスと関係の深い国々へ、積極的に輸出するようになりました。

また、第一次大戦の1925年には、ヘイグ・アンド・ヘイグ社、ウォーカー社、ブキャナン社、デュワー社を、1927年にはマッキー社を傘下に入れ、D.C.L.はスコッチ・ウイスキー全生産量の60%のシェアを占めるようになりましたが、その後シェアが大幅に減少し、ビール企業のギネス社の一部門に吸収されました。

アメリカのウイスキーの歴史

アメリカで、穀物の蒸留酒がつくられるようになったのは、18世紀に入ってからといわれています。

本格的にウイスキーがつくられたのは、ケンタッキー州のバーボン郡で、1783年にエヴァン・ウイリアムズがウイスキーを蒸留したという言己録が残っていますが、現在のようにトウモロコシを原料にしてつくるようになったのは、1789年ケンタッキー州のジョージタウンで、バプティスト派の牧師エリジャー・クレーグが先駆者といわれています。

1775年に始まった独立戦争後の1791年、連邦議会が財政確保のためウイスキーに重税をかけたため、東部の蒸留業者の間で暴動(ウイスキー反乱)が起き、業者や農民は、ケンタッキーに逃れ、そこで良質の水とトウモロコシを得て、新しいウイスキーづくりが始まりました。

このケンタッキー州バーボン郡でつくられたウイスキーは、土地の名を取ってバーボン・ウイスキーと呼ばれるようになりました。

1919年にアメリカで成立した禁酒法は、皮肉にもカナダのウイスキー産業を発展させることとなりました。

というのも、アメリカヘの密輸ウイスキーで潤ったからです。

1933年に禁酒法は撤廃されたが、その直後アメリカに良質なウイスキーを多量に供給したカナダのウイスキーは、一気に人気を獲得しました。

日本のウイスキーの歴史

ウイスキーが日本に最初に伝えられたのは1853年、ペリー総督率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に来航した年とされています。

ウイスキーが最初に輸入されたのは、明治維新後の1871年のことです。

輸入元となったのは主として薬酒問屋で、欧米文化の香りを伝える洋酒のひとつとして輸入したのですが、残念ながら消費は伸びず、明治末でも洋酒は酒類市場の1%にも達しませんでした。

国産ウイスキーの蒸留が始まるのは、関東大震災のあった1923年のことです。

この年、京都郊外・山崎峡で日本初のモルト・ウイスキー蒸留所、寿屋山崎工場(現在のサントリー山崎蒸留所)の建設が始まり、日本の本格的ウイスキーづくりの一頁が開かれました。

それは、日本にウイスキーが輸入されてから約50年後のことでした。

そして、1929(昭和4)年、この蒸留所から国産ウイスキー第一号の「サントリー・ウイスキー自札」が誕生しました。

このあと、第二次大戦前には、東京醸造、ニッカなどがウイスキー事業に乗り出しました。

第二次大戦後、生活の洋風化が進み、ウイスキーは本格的に人々の間に浸透し、数多くのウイスキー業者が参入しましたが、その中で、着実に伸びてきたのが、オーシャン(三楽)、キリン・シーグラムなどです。

そして、日本のウイスキー業界全体も若実に成長を遂げ、技術的にも進歩し、世界5大ウイスキーのひとつとして独自の個性を確立するようになりましました。

世界5大ウイスキー

世界の5大ウイスキーと呼ばれているのは、スコッチ、アイリッシュ、アメリカン、カナディアン、ジャパニーズです。

一見同じような琥珀色をしているが、その国の伝統に培われた技術や努力が活かされ、世界各地でつくられるウイスキー界をリードするウイスキーとなっている。

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